EX
1002

1962年2月から三菱重工名古屋航空機製作所大江工場で静強度試験機として使用するために、日本航空機製造が作ったYS−11の第1号機。と言っても実際に空を飛んだことがない機体である。

EX
1004

01号機が静強度試験機であるのに対して、この02号機は科学技術庁航空技術研究所調布支所で、疲労試験機として金属疲労などの試験に使用された後に旧羽田空港ターミナルビル屋上に機内展示用機材として、ディスプレイされていた。

1001

YS−11のプロトタイプとして1962年7月に完成し、1ヶ月後の8月に初飛行を行ったJA8611。初飛行後は、各種飛行試験に使用され、一時期名古屋及び伊丹の空港で整備保管状態にあったが、1989年8月に伊丹空港から成田空港へのラストフライトを実施し、現在は成田航空科学博物館の前庭に展示されている。

1002

試作2号機として製造された同機は、東京オリンピックの聖火輸送専用機として全日空が日本航空機製造からリースすると同時に全日空と東京オリンピックのスペシャル・マーキングが施され、沖縄(当時は返還前)から千歳にいたる日本国内の聖火輸送を実施している。ちなみに、全日空はこの聖火輸送を記念しYS−11に「オリンピア」のニックネームを付けて運航を行っていた。

2003

YS−11の1号機となるJA8610は、運輸省航空局(現国土交通省)に65年3月30日にデリバリーされ、98年12月までの33年間日本全国の空港や各地に設置されている航法援助設備の定期検査に活躍していたが、98年12月に羽田空港から最後のフライトを実施後、99年8月に文部省に移管し上の科学博物館に展示されている。

2004

ミッドパシフィック航空からリースで運航するファーウエスト航空のカラーリングが施された、元JA8639号機。同機は、東亜航空向けとして65年4月にデリバリーされ、日本国内で約5年間運航された後、大韓航空、フィリピン航空と売却され、84年7月にミッドパシフィック航空への売却整備を大阪で行うために14年ぶりの里帰りとなった。

2005

東亜航空向けYS−11量産5号機として製造されたJA8641号機。東亜航空と日本国内航空の合併により東亜国内航空が誕生し、同機には「みやじま」のニックネームが与えられ、日本国内のローカル線などで24年間活躍していた。その後、アメリカのキングスリー・アビエイションに売却され、ラスベガスで整備保管されていた。

2006

日本国内航空が受領した時は「真珠」のニックネームが付けられていたが、3年後に「あかん」に変更されている。また、東亜航空と日本国内航空の合併後に同機のニックネームが「ましゅう」に再び変更され、それ以降売却される89年3月まで「ましゅう」のニックネームで運航されていた。このJA8640号機は、90年7月にアメリカで登録抹消されている。

2007

65年6月に日本国内航空が受領・運航していたJA8643号機は、2度のオーバーラン事故を起こした機体で、受領当時「黒輝」のニックネームがついていたが修復後に「ひだか」に変更されている。89年12月にL&Mアビエイションに売却、91年にKFSアビエイションに再び売却されその後は、ガンビアのバンジュールで保管されている。

2008

65年2月に初飛行を行い、同年3月に航空自衛隊第402飛行隊に配備され93年3月まで人員及び物資輸送などに運用されていたが、飛行点検機に改造されると同時に飛行点検隊に移管され、航空自衛隊入間基地をホームベースに自衛隊各基地の航法援助施設の点検作業などに運用されている。

2009

65年3月に航空自衛隊は日本航空機製造からデリバリーを受けた52−1151号機は36年間第401/402飛行隊で要人輸送用としてキャビン・レイアウトも通常の機体とは違ったレイアウトが施され運用されている。01年8月に航空自衛隊第403飛行隊に移管し運用されている。

2010

全日空が65年7月から5年間日本国内で運航した元JA8644号機。同機は全日空で運航された後に、インドネシアのメルパチ・ヌサンタラ航空に売却され、8年間インドネシアで運航されていた。エアーニッポンが購入し再び日本の空で95年5月まで活躍していたが、フィリピンのアボッツ・エアトランスポートへ売却し同年6月に伊丹空港からフェリーされ、現在フィリピンで活躍している。

2011

65年から約6年間日本の空で活躍し、第二の人生をインドネシアのメルパチ・ヌサンタラ航空で活躍していたが、74年4月にジャカルタ空港で胴体着陸事故を起こし、翌5月に廃棄処分となっている。

2012

フィリピナス・オリエント航空のカラーリングで65年に完成し、71年までフィリピンで活躍していたが、84年11月にミッドパシフィック航空へ売却が決まり、売却整備のために伊丹空港に里帰りし、約3ヶ月後の85年1月にアメリカに向け出発。89年にメキシコのアエロシェアに売却され近年登録抹消となっている。この機体は、完成から登録抹消まで一度もJAナンバーを付けたことの無い機体でもある。

2013

写真は、一度海外に売却された後に日本近距離航空(現:エアーニッポン)が購入したため、再び日本の空に姿を現したJA8650号機。この機体は、完成当初は全日空が運航していたが、伊丹空港で胴体着陸のアクシデントを起こし、修復後にメルパチ・ヌサンタラ航空へ売却された。約18年間日本で活躍していたJA8650号機は、96年11月にフィリピンのエアー・フィリピンに売却され96年11月にフェリーされ、98年11月までフィリピンの空を飛び回っていた。

2014

日本国内航空向けとして製造され、65年10月にデリバリーされた機体で「珊瑚」のニックネームが与えられたが、3年後に「つがる」にニックネームが変更された。また、東亜航空との合併後もニックネームの変更は行われていない。90年まで日本国内で運航された同機は、同年11月にアルバのエア・アルバに売却され運航していたが、91年にアメリカのトランス・セントラル航空にいったん売却され、再びアルバのリース会社が購入し運航している。

2015

この機体も、製造番号2012と同様に製造から登録抹消までJAナンバーを付けたことのない機体で、写真のフィリピナス・オリエント航空にデリバリー後、フィリピン航空、ミッドパシフィック航空、フェアー・ウエスト航空と、フィリピンからアメリカへと移動した機体であるが、ミッドパシフィック航空への売却時に大阪での売却整備が行われている。

2016

65年11月に初飛行を行い、同年12月に日本国内航空にデリバリーされたYS−11量産16号機となるJA8651号機。同機には、当初「聖火」のニックネームが与えられていたが、68年に「とわだ」にニックネームが変更されて、会社の合併でも変更はされていないが、レインボーカラーにマーキングが変更された際にニックネームが機体から消えた。

2017

67年伊丹空港で撮影された日本国内航空のYS−11。日本航空機製造で完成した同機には「ダイヤモンド」のニックネームが付けられていたが、68年7月に「いず」にニックネームを変更して、会社合併のカラーリングをレインボーカラーに変更した際に機体から抹消されている。同機は、日本国内での運用終了後にアルバ、フィリピンと売却されており、97年4月にエアー・フィリピンで登録抹消となり、スービック湾に魚礁などの目的に沈められている。

2018

航空自衛隊向けとして日本航空機製造で製造され66年1月に初飛行し、同年3月に航空自衛隊第402飛行隊にデリバリーされ約38年間人員及び物資輸送などの任務に従事、現在は第403飛行隊に配属されている。また、空自が要人輸送などの目的でU−4を導入した関係から、それまで空自が運用していたYS−11Pを順次YS−11FCなどに改修しており、現在純粋にP型として残っているのはこの機体と製造番号2009の2機だけである。

2019

66年2月に初飛行し、航空自衛隊へのデリバリー直前の3月20日(デリバリーは3月28日)に名古屋空港で撮影されたYS−11量産19号機。同機は、デリバリー前のためか登録番号以外は描かれていない。空自が受領後一貫して輸送業務に従事していた。90年12月に飛行点検機にコンバートされ飛行点検隊に配備された。航空自衛隊入間基地をベースに日本全国の自衛隊の基地を飛び回り航法援助施設などの点検を行っている。

2020

日本国内航空向けとして製造されたJA8656号機。同機には「サファイア」のニックネームが付けられていた。写真のレッド&グリーンまではニックネームが機体にかかれていたが、社名が日本エアシステムとなりカラーリングもレインボーカラーに変更した際に機体からは消えている。94年にアルバのKFSアビエイションに売却のためにシンガポールにフェリーしている。現在フィリピンのアジアン・スピリットで運航されている。

2021

66年3月に初飛行し、67年1月に運輸省航空局(現国土交通省)にデリバリー以降日本国内の航法援助施設の点検等に運航されていた。99年8月にフィリピンのエア・フィリピンに売却されマニラ国際空港で整備保存されていたが、同年11月にアボイテス・エアに売却・運航されている。

2022

日本国内航空向けに製造されたJA8662号機。本機は、日本国内航空にデリバリーされた時は「ルビー」のニックネームが付けられていたが、デリバリーから2年後の68年7月に「なると」に変更されている。東亜国内航空時代の88年1月に米子空港でオーバーラン事故を起こし登録抹消されたが、機首部分は川崎市にある「バスと電車の博物館」で第2の人生を送っている。

2023

名古屋の三菱重工で整備作業中の全日空向けYS−11量産23号機。本機は、初飛行からわずか半年後に松山沖で墜落事故をおこし66年11月に登録を抹消されている。この写真は、本機の唯一の写真である。

2024

全日空に66年6月にデリバリーされ約10年間運航していたが、伊丹空港で一時期保管された後に東亜国内航空(元:日本エアシステム、現日本航空)にリースされ「いぶすき」のニックネームで運航された。77年12月にリースバックされ、約2年後の79年にエアーニッポンにリースされている。現在は、ガンビアのマフューズ・アビエイションが所有・保管している。

2025

66年6月に初飛行し、同年7月に全日空にデリバリーされ76年3月まで同社で運航していたが、3月から約1年間伊丹空港での整備保管を経て、77年4月にフィリピン・エアに売却され、伊丹空港からフィリピンにフェリーされた。その後、84年11月にミッドパシフィック航空に転売されフィリピンから伊丹を経由しミッドパシフィックのホームベースであるホノルル空港へ向かった。その後は、オランダ領アンティル、セント・マーティン島でウインエアとして運航されていたが、93年に登録抹消となり、バー&レストランとなっている。

2026

日本国内航空向けに製造されたJA8665号機だが、本機はキャンセルとなり日本航空機製造が66年9月15日から10月13日までアメリカを、また67年1月25日から3月15日まで南米の各国へのデモフライトを実施している。デモフライトから日本に戻ってきた本機は、改修作業が行われ形式がー120となり南米のランサ航空へ売却されている。69年5月に日本国内航空が本機を買い戻し、改修作業で形式を元のー109に戻し96年5月までの27年間日本の空で活躍した。その後アルバに売却され、同年7月にエア・フィリピンに売却、98年7月に登録抹消となっている。

2027

羽田空港で撮影されたフィリピナス・オリエント航空向けPI−C964号機。本機は66年8月に初飛行を行い、同年10月にデリバリーされフィリピンで活躍していたが、84年9月にミッドパシフィック航空に売却され、一度日本に戻り約3ヶ月後の12月に伊丹空港からホノルルへ向けフェリーされている。ホノルルでリース会社に売却後、同地でストアされていたが、89年9月に登録抹消された。

2028

東亜航空向けとして製造されたYS−11量産28号機。66年8月に初飛行を行い、同年9月にデリバリーされている。71年5月に東亜航空と日本国内航空が合併し東亜国内航空(前:日本エアシステム、現:日本航空)となり、本機には「いずも」のニックネームが与えられた。82年10月に登録を抹消されるまで日本の空で活躍し、その後はミッドパシフィック航空に売却され、89年9月に登録抹消となった。

2029

デリバリー直前の66年11月15日に名古屋空港で撮影されたハワイアン航空向けYS−11。同航空で約2年間運航されたのち全日空が購入し、71年12月まで運航した後にメルパチ・ヌサンタラ航空に売却された。78年3月にエアーニッポンが再び本機を購入し、95年8月まで日本国内で運航されていたが、95年8月にアボイディスエアに売却され、3年後の98年7月に登録抹消となった。

2030

66年11月から68年10月までハワイアン航空がリース運航したYS−11量産30号機。リース終了後は全日空にデリバリーされ、75年3月まで日本国内で運航されていたが、91年3月にガンビア航空に売却された。写真は、ガンビアへのフェリー前に撮影されたもので、現在はガンビアでストアされている。

2031

このYS−11もC/N2030と同様に66年12月から67年10月までハワイアン航空で運航されていたが、リース期間終了とともにハワイアン航空のカラーリングのままで日本に戻ってきている。帰国後はJA8686の登録番号が与えられ、日本航空機製造で整備が行われ、67年12月から68年8月までアルゼンチン航空にリースされている。リース後は「さつま」のニックネームが与えられ82年11月まで日本国内で活躍していたが、ミッドパシフィック航空に売却され、現在はアメリカでストアされている。

2032

日本国内航空向けとして製造され、67年1月に初飛行したJA8667号機には「オパール」のニックネームが与えられたが、68年7月に「むろと」に変更されている。日本での登録が抹消された96年5月まで、合併及び社名変更などいろいろな問題があったが、約29年間の長きにわたり日本国内で活躍していた。その後はリース会社を経由しエア・フィリピンに売却された。現在はマニラ国際空港でストアされている。

2033

海上自衛隊向けとして製造された本機は、人員及び物資輸送機として海上自衛隊厚
木航空基地をホームベースに北は八戸から南は那覇までの基地間の定期便として運航されている。写真の904号機は、最初に海上自衛隊51航空隊にデリバリーされ、それ以降は205飛行隊、そして現在運用している61航空隊で任務に従事している。

2034

当初は日本航空機製造からリースで運航されていたJA8668号機だが、全日空は約1年後に購入に切り替えている。その後は登録抹消される93年4月まで全日空及びエアーニッポンの供用機材として両社の路線に投入されるなどしていたが、93年4月にアボイディスエアに売却されエアーニッポンのカラーリングのまま伊丹空港からフィリピンへ向けフェリーされている。現在は、マニラ国際空港でストアされている。

2035

ランサ航空へデリバリー前に名古屋空港で撮影されたYS−11の量産35号機。67年4月から約2年間運航され、日本航空機製造へリースバックされている。69年10月に今度は日本国内航空へリースされ「くまの」のニックネームで運航された。96年4月の登録抹消までの27年間に合併と社名変更があったが、他のYS−11はニックネームが変更された気体が多い中、この気体は最後まで変更されなかった。現在は、インディアナ州のアメリカ空軍グリソム空軍基地博物館に展示されている。

2036

67年3月に初飛行し、クルゼイロ航空向けに製造されたがキャンセルとなり、日本航空機製造でアメリカ連邦航空局(FAA)の形式証明取得のための試験飛行を実施すると同時に、−123型にコンバートされ、ピードモント航空の訓練用機材として羽田空港から67年7月にフェリーされている。約8ヶ月後に日本に戻ってきた本機は、東亜航空にリースされ全日空との供用機材として運航されていたが、日本国内航空との合併時に「にちなん」のニックネームが与えられている。東亜航空にリースに出される前に−129型にコンバートされている。

2037

日本国内航空が発注したこのYS−11には「ガーネット」のニックネームが与えられ67年4月に同航空にデリバリーされていたが、68年7月に「きりしま」に変更されている。日本での運用が終わった後は、フィリピンのエア・フィリピンに売却され同地で第二の人生を送っている。

2038

日本航空機製造からのリースを受け東亜航空が運航していたYS−11は、全日空との供用機材として運用されていたが、合併の際本機には「おき」のニックネームが付けられた。86年11月にマンダラ航空が東亜国内航空から購入し、羽田空港で改修作業が行われたが、運航には使用されず羽田空港で2年ほどストアされ、88年10月に登録抹消後にスクラップになっている。

2039

名古屋空港でデリバリー前に撮影された、フィリピナス・オリエント航空カラーに彩られたYS−11。本機は67年7月にデリバリーされてから登録抹消となる80年までの13年間一貫してフィリピン国内で運航されていた。本機の初飛行は67年5月。

2040

67年5月に初飛行し、同年6月にランサ航空にデリバリーされ75年2月までリース運航されていた。その後ピードモント航空に売却され79年7月まで約4年間運航された後、登録を抹消されアメリカ、ノースカロライナ州ウインストン・セーラム空港で保管されると同時に部品取りに使用されている。

2041

日本航空機製造が伊藤忠商事に売却し、伊藤忠からクルゼイロ航空へリースされたYS−11量産41号機。本機は68年にクルゼイロ・カラーのままVASP航空及びオーストラル航空にサブリースされ運航されていた。リースバックされ伊丹空港に戻ってきた本機は、売却前の整備が行われ伊藤忠商事の手によって運輸省(現:国土交通省)に航空機登録が行われている。整備終了後に日本国内航空に売却、68年11月に航空機登録が行われ、完成時に登録されていたJA8680が再度与えられ、登録抹消される79年7月までの11年間日本の空で活躍していた。

2042

67年6月に初飛行したYS−11量産42号機は、量産41号機と同様に伊藤忠商事に売却後、クルゼイロ航空に67年8月からリースされ運航している。日本に戻ってきた本機は、再びリースで大韓航空にデリバリーされたが、3年後に同航空がリースから購入に切り替えている。その後の本機は、74年12月からフィリピン航空、81年7月ピネハースト航空、83年3月トランス・セントラル航空、84年6月シモンズ航空と各社をわたり、90年5月に登録抹消され航空機としての幕を閉じた。

2043

完成直後に名古屋の三菱重工で撮影された、クルゼイロ航空向けのYS−11。この機体は不運な運命を辿っており、69年7月の大韓航空へのリースまでは量産42号機と同じ流れであったが、同航空で運航中の69年12月にハイジャックに遭遇し北朝鮮へ向かい、着陸後は所在不明となっている。

2044

67年9月に羽田空港で撮影された、クルゼイロ航空向けのYS−11。本機の胴体には東京→リオデジャネイロ、日本の航空機登録番号、日の丸が、また、写真には写っていないが機首に「YS-11 Nihon Aeroplane MFG,Co」の文字以外は何も書かれていない。ブラジルからNihonに戻ってきた本機のその後は、70年4月からリースで大韓航空に、74年12月フィリピン航空、81年7月ピネハースト航空、83年3月トランス・セントラル航空、84年5月シモンズ航空と渡り歩き、その後はリース会社等を経て90年2月に登録抹消され、部品取りに使用された。

2045

67年9月に初飛行した、アルゼンチン航空向けYS−11量産45号機。本機は67年11月から67年9月まで同航空でリース運航されていた。リース終了後、アルゼンチン航空のカラーリングで羽田空港に到着し、日本航空機製造により整備され東亜航空で68年11月から運航している。日本国内航空との合併後に本機には「ほたか」のニックネームが与えられた。83年12月にミッドパシフィック航空に売却され、アメリカで活躍し91年6月に登録抹消となっている。

2046


完成直後にはJA8685の登録番号が与えられたが、登録直後にテストレジであるJQ2046に変更され、日本航空機製造やユーザーによる各種のテスト飛行を実施した後にペルーに向けてフェリーされ、ランサ航空で約8年間運航された。ランサ航空での運用後、ビードモント航空に売却され、79年7月まで使用され同年に登録が抹消され部品取り機となった。

2047

運輸省航空局(現:国土交通省)向けとして製造されたYS−11量産47号機。本機は67年9月に初飛行し、68年8月に航空局にデリバリーされている。デリバリーまで約1年かかっているのは、各種の検査装置の取り付け及び装置の検査に要したものである。

2048

67年10月に初飛行し、同年11月に航空大学用機材としてデリバリーされ約5年間、学生のパイロット・トレーニングに運用された。その後教育方針の変更に伴い教育用機材が見直され、余剰となったYS−11は72年に航空局に移管され、02年10月に航空機としての使命を終え、廃棄されている。

2049

航空局の検査機として03年5月まで活躍していたYS−11量産49号機(JA8712)。この機体もJA8711と同様に、機体デリバリー直後から航空大学校機材として67年3月まで運用されて、72年3月に航空局に移管された。登録抹消後アメリカの航空機販売会社に売却されN4047Cの登録番号が与えられていたが、日本を離れることがないままに01年8月に熊本の崇城大学に売却されている。

2050

ピードモント航空向けとして製造され67年11月に初飛行し、三井物産を経由して68年5月にピードモント航空にデリバリー、運航されていたが、70年6月に最大離陸重量が引き上げられた500型にコンバートされている。この改修から8年後の78年9月にペンハースト航空によりオールフレイターに改修運航されていたが、80年4月にエアボーン・エクスプレスに売却された。現在は、エアボーンから社名変更したABXエアで運用されている。

2051

67年11月に初飛行したYS−11量産51号機。本機は三井物産からピードモント航空にリースされ、運航開始後の67年12月に「SAKURA」のニックネームがノーズに書き込まれている。この機体も70年6月に500型にコンバートされている。97年5月の登録抹消までエアボーン・エクスプレスで活躍していたが、現在はABXエアで運用されている。

2052

三井物産を経由してピードモント航空にデリバリーされ、500型にコンバートされたが、74年1月にワシントン・ナショナル空港で火災事故を起こしている。約1年かけて修復及び改修作業が行われ、ミッドウエスト・エア・チャーターに79年8月に売却されチャーター運航されていた。ペンハースト航空にリースされた際にフレイターに改修され、貨物機として運航された。80年1月にエアボーン・エクスプレスが購入運航していたが、97年5月に登録抹消となっている。

2053

67年12月に初飛行したピードモント航空向けYS−11量産53号機。この機体も三井物産経由でデリバリーされている。70年6月にペンハーストが運航し、79年5月にオールフレイター型に改修されている。79年10月からエアボーン・エクスプレスが運航していたが、97年5月に登録が抹消されている。

2054

クルゼイロ航空に68年3月にデリバリーされ運航されていたが、約9年後の77年5月にサンタカタリナ・ジョインビル空港でオーバーラン事故を起こした。墜落事故を起こしたC/N2080の部品を使用してリペアし路線に戻っている。79年1月に東亜国内航空が本機を購入し、「いこま」のニックネームを付け日本国内で運航したが、途中で500型にコンバートされている。03年7月に登録抹消となり、青森市の「みちのく北方漁船博物館」に展示のために羽田空港から分解陸送され、現在同博物館に展示されている。

2055

68年1月に初飛行し、クルゼイロ航空に68年3月にデリバリーされ約9年間南米で活躍した後に東亜国内航空が77年11月に購入し、94年10月まで同航空で運航していた。東亜国内航空で運航中に500型にコンバートされている。94年10月から子会社である日本エアコミューターで運航されていたが、03年7月に鹿児島空港から能登空港へフェリーフライトを行った後に登録抹消となっている。本機は能登空港に隣接する日本航空学園の教材として、同学園にデリバリーされた。

2056

日本航空機製造が三井物産向けとして製造したYS−11量産56号機。この機体は68年7月に三井物産からピードモント航空へデリバリーされている。同航空が運航を開始した2年後の70年6月に500型にコンバートされた。ピードモントからリース運航しているペンハースト航空が本機を79年2月にオールフレイターへの改修作業を行っている。81年8月にエアボーン・エクスプレスが購入し運航していたが、97年5月に登録抹消されている。

2057

68年1月に初飛行し、ピードモント航空へ68年8月にデリバリーされて運航されていたが、約2年後の70年6月に500型にコンバートされている。77年11月にピラミッド航空がピードモントからリース運航し、78年に購入に切り替えられた。84年6月にプロバンスタウン・ボストン航空に売却されたが、92年2月に登録が抹消されている。

2058


68年2月に初飛行し、同年3月に海上自衛隊にデリバリーされた。当初は第205航空隊に配備され71年12月まで運用されたが、同月第61航空隊に移管され、同隊で物資及び人員輸送に活躍している。この機体はYS−11の100型最終モデルである。

2059

デリバリー直前の68年10月に羽田空港で撮影されたバスプブラジル航空向けYS−11量産59号機。本機は68年11月にデリバリー運航されていたが、72年4月にリオ・デ・ジャネイロ近郊の山に墜落している。

2060

機体完成時に珍しくデリバリー先の全日空のフルカラーでロールアウトしたJA8693号機。68年3月にデリバリーされてから13年間、全日空の路線で活躍していたが、81年7月にグループ会社であるエアーニッポンに売却され、同社路線で活躍していた。83年3月に中標津空港で墜落事故を起こし、用途廃止となっている。

2061

三井物産を経てピードモント航空へ売却されたYS−11量産61号機。68年8月にデリバリーされ、70年6月に500型にコンバートされている。その後は78年4月にピラミッド航空が購入運航していたが、84年6月にプロバンスタウン・ボストン航空が購入運航している。92年2月に登録が抹消されている。

2062

初飛行直後に名古屋空港で撮影された、ピードモント航空向けYS−11量産62号機。三井物産を経て同航空にデリバリーされた。70年6月に500型にコンバートされている。また、ペンハースト航空が79年9月にオールフレイターへの改修作業を行い、80年7月にエアボーン・エクスプレスに売却されている。97年5月にエアボーン・エクスプレスから社名を変更したABXエアが登録を抹消している。

2063

全182機が製造されたYS−11のなかで比較的短い運航を終えたYS−11量産63号機。68年5月にクルゼイロ航空にデリバリーされ運航していたが、72年10月にサンパウロのコンゴンハス空港でオーバーラン事故を起こしている。

2064

クルゼイロ航空向けに製造され68年3月に初飛行した本機は、74年4月に南西航空(現:日本トランスオーシャン航空)が購入し「でいご」のニックネームで那覇を中心に運航されていた。85年1月に本機を東亜国内航空(元:日本エアシステム、現:日本航空)が購入し「ひだ」のニックネームで運航していたが、途中で500型にコンバートされている。93年3月にアメリカの航空機販売会社に転売後、同年7月にエアーカリビアンに売却され、翌月登録抹消となっている。

2065

南西航空が運航していたYS−11量産65号機。本機は「ゆうな」のニックネームで南西航空路線に就航していた。当初は日本航空機製造からのリースで運航していたが、72年12月に購入に切替られている。本機も500型にコンバートされている。79年10月に東亜国内航空(元:日本エアシステム、現:日本航空)が購入し「ざおう」のニックネームで運航していたが、88年4月にアメリカの航空機販売会社に転売後、一時期モハビでストアされていたが、93年7月にエアーカリビアンに売却され、96年9月に登録抹消となっている。

2066

全日空が68年5月から84年1月まで運航していたYS−11量産66号機。16年間の日本での運航が終わった後の84年2月に、トランスコンチネンタル航空にリースされ、伊丹空港からフェリーされている。フェリー後約4ヶ月は同航空で運航されたが、後に航空機販売会社に売却されている。84年8月にミッドパシフィック航空にリースされるが、4ヶ月後にフォートワース航空にサブリースされている。最終的に89年12月にリトラル航空に売却され、92年2月まで運航され登録が抹消されている。

2067

68年4月に初飛行し、バスプブラジル航空向けに製造されたが、同航空がキャンセルしたため一部を改修し形式を208に変更し、全日空が購入、81年8月まで運航していた。翌月日本近距離航空(現:エアーニッポン)に売却され、96年10月まで日本の空で活躍していた。同年10月にエアフィリピンに売却され、伊丹空港からフェリーされている。98年10月に登録抹消され、アジアン・スピリットに転売され運航されている。

2068

日本航空機製造により68年6月に新規登録された機体だが、68年10月にバスプブラジル航空にデリバリーされrたため、68年12月に日本の航空機登録が抹消されている。ブラジルの空で活躍していたYS−11量産68号機だが、デリバリーから5年後の73年10月にリオ・デ・ジャネイロのサントスデュモン空港で離陸に失敗し、グアナラバラ湾に水没する事故を起こし登録を抹消されている。

2069

南西航空が「あだん」のニックネームで、日本航空機製造からリース運航していたYS−11量産69号機。南西航空は本機を72年12月にリースから購入に切り替えて運航していたが、89年4月にエアアルバにリースされた。その後はエアアルバが購入に切り替えると同時に、94年2月にキャビンを要人専用に改修し運航していた。96年12月にアジアン・スピリットが購入し運航していたが、現在はマニラ国際空港でストアされている。

2070

貨客混載型として、日本航空機製造が開発した300型。68年6月の初飛行から2ヶ月後の8月に東南アジアツアーと、イギリスで開催されたファーンボロ航空ショウへの展示を兼ねた中東及びヨーロッパへのデモフライトを実施している。デモフライトから戻った本機は、大韓航空に69年4月からリースされ、また74年12月からはフィリピン航空が運航した。84年7月からはミッドパシフィック航空が購入し、アメリカ郵政省用としても運航を行っていたが、98年3月にバーレーンのグローバル航空に売却され、01年にコロンビア陸軍が運用している。

2071

日本国内航空向けに製造され、「いぶすき」のニックネームで68年7月から同航空で運用されていたが、75年1月にエンジンを換装し最大離陸重量を引き上げた貨客混載型の600型にコンバートされている。コンバート後に荒らすかのリーブアリューシャン航空に売却され、同社でオールフレイターに改修された。99年11月にサンフランシスコ・フライトオペレーションが本機を購入運航していたが、02年4月にメキシコのギャセラ・エアカーゴが運用している。

2072

68年7月に初飛行し、同年8月にカナダのトランスエアにデリバリーされたYS−11量産72号機。本機は、78年4月まで同航空で運航された。79年12月にペンハースト航空で運航され、85年3月にオールフレイター型にコンバートされている。98年9月に登録が抹消されている。

2073

トランスエア向けに製造された、YS−11量産73号機。68年8月から同航空で運航されていたが、80年2月にペンハースト航空が購入しマイアミ空港でストアされていた。81年2月にミッドパシフィック航空に転売され、98年8月にメキシコのアルコン・サービシジョン航空が購入運航している。

2074

航空自衛隊に68年8月にデリバリーされ、第403飛行隊に配備され人員輸送などの任務についていたが、オールフレイターにコンバートされ基地間の物資輸送などに運用された。95年2月に電子情報収集機として厚木基地で改造されEB型となった。機体及び各種電子機器の検査後入間基地にフェリーバックされ、95年4月に総隊司令部飛行隊電子飛行測定隊に移管されている。

2075

三井物産を経由して、ミッドパシフィック航空にデリバリーされ68年11月からアメリカ国内で運航された。70年6月に500型へのコンバートが行われ、79年にはオールフレイターへのコンバートも行われている。この改修前に本機はペンハースト航空にリースされ80年2月にエアボーン・エクスプレスに売却された。その4年後に登録抹消され、スペアパーツ取り用機材としてストアされている。

2076

68年8月に初飛行し、68年12月にバスプ航空へデリバリーされたYS−11量産76号機。本機は、ブラジルのアラガルカス空港でインシデントで同空港において修復作業中に火災が発生し、72年2月に登録抹消となっている。

2078

68年9月に全日空にデリバリー依頼、一貫して全日空グループで運航されたJA8722号機。本機は一時期全日空とエアーニッポンとの供用機材として運航されたが、9位0年8月にエアーニッポンにリースされている。その後、99年12月にリースから購入に切り替えられた。02年5月にアジアン・スピリットが購入しフィリピンで運航している。

2079

YS−11量産79号機は、68年10月に航空自衛隊入間基地で開催された第2回航空宇宙ショーで公開展示されている。本機は、ショー終了後にバスプ航空にデリバリーされている。その後東亜国内航空が購入し、77年11月にデリバリーされた。羽田空港に到着後500型にコンバートされ「きび」のニックネームで運航されていた。94年2月にはエアザンビアにリースされ、羽田からタンザニアにフェリーされている。エアフィリピンで96年7月から運航されていたが、97年7月に登録が抹消された。

2080

68年9月に初飛行し、同年10月にブラジルのクルゼイロ航空にデリバリーされ屋気宇9年間運航されていたが、77年4月にサンタカタリナ州イタジャイ空港で墜落事故を起こし、登録抹消となっている。なお、同州のジョインビル空港でオーバーラン事故を起こしたC/N2054の修理のための部品取りとなった。

2081

クルゼイロ航空に68年10月にデリバリーされ、77年7月まで運航された後に日本に戻ってきた本機は、東亜国内航空が「たかちほ」のニックネームで運航、途中で500型にコンバートされた。N994CLの都迂路気宇番号で93年4月に羽田からフェリーされたが、翌月に登録が抹消されている。

2082

68年9月に初飛行し、同年11月にクルゼイロ航空にデリバリーされたYS−11量産82号機。クルゼイロでの運用終了後の72年10月にアメリカのパシフィック・サウスウエスト航空にデリバリーされ、定期便及び訓練用として運用されていたが、74年3月にカリフォルニア州サンディエゴのボレゴ・スプリングスで乗員訓練中に墜落している。

2083

クルゼイロ航空へ68年11月にデリバリーされ、ブラジルで運航されていたが、69年11月にハイジャックに遭遇し、キューバへの亡命飛行が行われた。73年10月に南西航空が本機を購入、11月に航空機の新規登録を行い「ふくぎ」のニックネームで運航を開始している。99年8月にボンバルディア社が本機を購入し、その後エアフィリピン、アジアン・スピリットと渡っている。

2084

JA8709の登録番号で68年10月に初飛行し、69年1月にバスプ航空にデリバリー、77年8月までブラジルで運航されていたが、東亜国内航空が本機を買い戻し「よろん」のニックネームで運用を開始した。85年10月に運輸省航空局が本機を購入し、飛行検査機として運用された。

2085

全日空が68年11月に日本航空機製造から購入し、日本国内で運航していたYS−11量産85号機。本機はデリバリーされた翌年の10月に宮崎空港でオーバーラン事故を起こし、事故翌月の11月に航空機登録が抹消されている。

2086

アルゼンチンのリトラル航空へ68年12月にデリバリーされ、ヨーロッパで活躍していたが、81年2月にミッドパシフィック航空が購入し航空機リース会社に売却と同時にリースバックされた。85年に500型にコンバートされ、その後98年9月に登録抹消となっている。

2087

ヨーロッパキャリアであるオーストラル航空へ68年12月にデリバリーされ運航していたYS−11A−309。本機はリース会社を経由してミッドパシフィック航空に売却され、84年11月に登録されている。また、85年7月に500型にコンバートされ、88年8月にミッドパシフィックエアにリースされたが、94年5月にリース会社に売却されルイジアナ州ラファイエット空港でストアされていた。98年9月に登録抹消となっている。

2088

テストレジのJQ2088が与えられ68年11月に初飛行したYS−11量産88号機。本機は、各種テスト実施後の69年6月にカスタマーであるオーストラル航空にデリバリーされ、約10年間同航空で運航されていた。その後ラパ航空へ売却され運航されていたが、80年8月にブエノス・アイレスのエゼ・ザエツ空港で車輪とプロペラを破損するインシデントが発生し、修理している。ミッドパシフィック航空へ売却された本機は、日本を経由してホノルルへフェリーされている。同航空で運用中にオールフレイターにコンバートされた。98年9月に登録抹消となっている。

2089

機体完成時には302の形式でテスト・フライトなどが行われ、69年12月から70年2月までアフリカ各国へのデモフライトを実施するに当たり、型式が309に改修・変更されている。デモフライトの後にエア・アフリカがリースで70年2月から運航を行い、72年3月にリースから購入に切り替えている。その後はエア・アイボリーにリースされた後に全日空が79年3月に購入している。日本に戻り600型にコンバートされた。その後、アボッツ・エアトランスポートなどで運航していたが98年10月に登録抹消された。愛媛県松前のレストランが本機を購入し、店舗として使用したが、火事で焼失している。

2090

日本航空機製造が南西航空向けに製造し、68年12月から「ばしょう」のニックネームで運航されていたが、80年3月に東亜国内航空へリースされ「しらはま」のニックネームが与えられた。86年に南西航空へリースバックされ、99年4月に登録を抹消されている。抹消後はエアフィリピンへ売却されている。

2091

69年2月にバスプ航空へデリバリーされ、74年3月に抹消されると同時にパシフィック・サウスウエスト航空に売却。同航空で約3年間運航した後に全日空が購入している。日本到着後500型にコンバートされた。84年2月に登録抹消となり、ミッドパシフィック航空へ売却された。89年10月まで同航空で使用された後に、89年10月にリスリトラル航空へ売却され、92年2月に登録抹消となっている。

YS−11全機情報(1)   試作機〜#2091

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