2092

日本国内航空向けとして製造された、YS−11量産92号機。本機は69年2月にデリバリー予定だったが、本機をリースする日本航空へデリバリーされ「あそ」のニックネームが与えられ日本〜韓国間に就航した。70年4月に日本航空からリースバックされた本機は、500型にコンバートされている。92年2月まで日本エアシステム(現:日本航空)で運航していたが、関連会社の日本エアコミューターにリースされ、鹿児島空港を中心に活躍した。

2093

海上保安庁向けに製造され、69面1月に初飛行を行ったJA8701号機。本機は69年3月に海上保安庁にデリバリーされ、羽田航空基地に配備され任務についている。本機には「ブルーイレブン」のニックネームが与えられている。2000年5月に海上保安庁の英文名称がそれまでの「JMSA」から「JCG:Japan Coast Guard」に変更されている。

2094

68年12月初飛行、69年1月に全日空にデリバリー。78年3月に日本近距離航空(現:エアーニッポン)へリースされ運航されていたが、その後全日空と日本近距離航空の間を行ったり来たりしていた。80年4月に日本近距離航空がリースから購入に切り替えている。その後、日本近距離航空路線に就航していたが、96年7月に登録が抹消されている。

2095

この機体もC/N2094と同様に全日空と日本近距離航空(現:エアーニッポン)との間を行ったり来たりしていたが、81年6月に日本近距離航空が全日空から購入している。本機は、丘珠空港で00年2月にオーバーラン事故をおこし約8ヶ月後の00年10月に解体されている。

2096

69年1月に初飛行した全日空向けのYS−11量産96号機。この機体も全日空で登録後に関連会社である日本近距離航空(現:エアーニッポン)へリースされたり、全日空に戻されたりしている航空機である。本機は95年4月に登録抹消となりスクラップとなっている。

2097

全日空が69年2月に受領したJA8279号機。78年3月に日本近距離航空にリースされ80年3月に全日空にリースバックされている。その後81年2月に日本近距離航空が購入している。02年11月に登録抹消となり、羽田空港からバンコクへフェリーされている。03年からプーケット航空がリース運航している。

2098

69年2月に初飛行し、翌月に全日空にデリバリーされたYS−11量産98号機。本機は全日空とエアーニッポンとの供用機材となっており、全日空及びエアーニッポンの両路線で運航されていた。91年8月全日空からリースでエアーニッポンが運航していたが、98年6月にリースバックされ、アボイティズエアに売却された。羽田空港からフィリピンへフェリーされ、アジアン・スピリットに売却された。また、本機は500型にコンバートされている。

2099

全日空が69年3月に日本航空機製造からデリバリーを受けると同時に、全日空とエアーニッポンとの供用機材として両社の路線で運航されていたJA731号機。91年8月にエアーニッポンへリースされたが、95年12月に全日空にリースバックされると同時に航空機登録を抹消され、96年3月にかかみがはら航空博物館に寄贈され現在展示されている。

2100

海上自衛隊向けとして日本航空機製造が製造したYS−11量産100号機。YS−11の初号機やこの100号機のように節目となる機体は、自衛隊や航空局などに納入されている。この機体は、海上自衛隊の哨戒機などの機上作業員の基礎訓練に使用されており、70年2月に海上自衛隊第51航空隊にデリバリーされ、同年5月に第205飛行隊に移管されている。

2101

69年3月に初飛行し全日空にデリバリーされ、91年8月にエアーニッポンにリースされるまで善に空路線で運行されたJA8732号機。エアーニッポンで運航中に500型にコンバートされた。97年5月に全日空にリースバックされ、翌月に登録が抹消されている。同年8月に所沢航空発症記念館に寄贈され、展示のため羽田空港から入間基地までの最後のフライトを行い、入間基地にて主翼等を分解して航空公園駅前に陸送、現在駅前公園に展示中である。

2102

69年3月に初飛行したYS−11量産102号機。本機を運航する全日空に69年4月にデリバリーされた。写真では解りづらいが、機首にYS−11A100号機を示す文字が書き込まれていた。90年2月にリース会社を経てエアーニッポンにリースされ、93年2月に購入に切り替えられた。本機は98年8月に航空機登録を抹消されると同時に佐賀県に寄贈され、翌9月に佐賀空港にフェリーされ同空港に隣接する駐車場の一角に展示されている。

2103

全日空により69年4月に航空機の新規登録が行われてから、89年4月にエアーニッポンに売却されるまで20年間運航されたYS−11量産103号機。本機はエアーニッポンに売却されてから登録が抹消される99年2月まで丘珠、羽田、福岡の各空港から離島及びローカル路線で活躍していた。抹消後の99年2月に兵庫県に寄贈され、但馬空港で展示中である。

2104

大韓航空向けとして69年3月に初飛行したがキャンセルとなったYS−11量産104号機。大韓航空がキャンセルした本機は、ギリシャのオリンピック航空が日本航空機製造からリースし70年1月から運航した。ギリシャへのフェリーの際に胴体にTOKYO→ATHENSの文字が書き込まれていた。リースバックされた本機は、600型にコンバートされ70年12月からメイエアにリース、その後ボーラック・インドネシア航空に再びリースされた。日本に戻り77年4月から「かいもん」のニックネームで東亜国内航空(元:日本エアシステム、現:日本航空)が運航し、81年3月にミッドパシフィック航空が購入し、オールフレイターにコンバートされDHLやミッドパシフィックエアなどで運航され、98年9月に登録が抹消されている。

2105

JQ2105のテストレジを付けて完成し、69年4月に初飛行したYS−11量産105号機。本機は東亜航空に69年10月にリースされ、71年2月に購入に切り替えられている。日本国内航空と合併し「あまみ」のニックネームで日本中をフライトしていた。81年2月にミッドパシフィック航空に売却され、85年12月にオールフレイターにコンバート、ハワイで運航された。98年9月に登録抹消されている。

2106

日本航空機製造がオリンピック航空向けとして製造し、70年1月にデリバリーされた機体。写真は、オリンピック航空での運航を終え日本に戻り、70年6月20日〜7月9日まで東アフリカ、7月25日〜8月3日まで南ベトナムで行われたデモフライトから戻った際に撮影されたもの。整備後の70年8月に大韓航空にリースされ、72年12月に購入に切り替えられている。その後74年12月にフィリピン航空に売却され、85年2月から90年4月までは日本エアシステム(現:日本航空)が運航し、90年にオールフレイターにコンバート、96年にエアーフィリピンに売却された。97年3月にアジアン・スピリットに転売されている。

2107

テストレジのJQ2107を与えられ、69年4月に初飛行し、その後各種飛行試験が実施されたYS−11量産107号機。70年1月、本機にJA8795の機番が書き込まれていたが、同年12月に日本航空機製造によりJA8774の機番で新規登録が行われた。しかし数日後に大韓航空jへリースされるために日本の登録番号が抹消されている。74年12月まで大韓航空で運航された後、フィリピン航空で運航された。77年にフィリピンのマクタン島マクタン空港の1キロ沖合に墜落している。

2108

69年4月に初飛行した全日空向けYS−11量産108号機。、機体完成時にはJA8734の機番が書き込まれていたが、航空局にはJA8735で新規登録が行われた。全日空で19年間運航された後、88年4月にエアーニッポンに売却されている。エアーニッポンで03年1月航空機登録が抹消されると同時にフィリピンのアジアン・スピリットに売却されている。

2109

三菱重工で製造され69年7月のデリバリー直前に撮影された、ピードモント航空向けの機体。本機は三井物産によりJA8740の登録番号が付与されていたが、米国籍取得後日本の航空機登録は69年9月に抹消されている。ピードモント航空へは10月にデリバリーされ、同航空で500型にコンバートされている。84年6月にプロバンスタウン・ボストン航空に売却されている。

2110

機体完成時は無塗装で日本の登録番号以外の表示は何もなかった、中華航空向けYS−11量産110号機。69年12月に中華航空にデリバリーされ台湾で運航されていたが、70年8月にスン・シャン空港への着陸進入中に墜落事故を起こし、登録抹消されている。

2111

69年5月初飛行、全日空向けとして製造sれ69年6月から同航空で運航され、88年1月にエアーニッポンに売却されるまでの19年間全日空で活躍した。エアーニッポンで運航中に500型にこんばーとされ、98年10月に航空機登録が抹消されフィリピンのアボイティズ・エアに売却、同航空は本機をアジアン・スピリットにリースしている。99年3月にバギオ航空でパンクのアクシデントが発生、現在はマニラ空港で整備保管。

2112

ピードモント航空向けとして製造され、69年6月に初飛行し三井物産によりJA8741の機番で新規登録が行われ、各種のテストを実施し10月にピードモント航空へデリバリーされた。同航空で運航中に500型にコンバートされている。また、ペンハースト航空で運航中にオールフレイターに改修されている。81年1月からエアボーン・エクスプレスで運航中の92年3月にオハイオ州ウイルミントン空港で胴体着陸の事故を起こし、修復された後の92年9月に用途廃止され、スペアパーツ取り用としてストアされていたが、93年に航空機登録を抹消された。

2113

三井物産を経てピードモント航空に69位年10月にデリバリーされ80年8月にエアボーン・エクスプレスへ売却されているが、70年6月に500型へコンバートされている。また、71年にノースカロライナ州ウインストン・セーラム空港で胴体着陸事故を起こし、修復され路線運行されたがペンハースト航空でオールフレイターにコンバートされると同時に、エアボーン・エクスプレスが購入運行。スペアパーツ用機材として98年3月に用途廃止となっている。

2114

YS−11量産114号機として製造され、69年8月に初飛行し三井物産を経由し10月にピードモント航空にデリバリーされた。81年1月にエアボーン・エクスプレスにより再登録されるまでの12年間で500型及びオールフレイターへコンバートされている。ABXエアで運航中の96年3月に航空機登録を抹消されている。

2115

69年7月に初飛行し、8月に全日空が航空機の新規登録を行い、91年8月にエアーニッポンにリースされるまで全日空が運航していた。69年12月にビーチクラフトC50(JA5022)と空中接触し左翼端約2mを切断、伊丹空港に緊急着陸している。約1ヶ月かけて修復され、定期便に戻されている。エアーニッポンからリースバックされた本機は、98年1月に登録を抹消すると同時に香川県に寄贈された。98年7月から高松空港に隣接する「さぬき子供の国」に展示されている。

2116

全日空向けとして製造され、69年8月に新規登録がされた後に全日空にデリバリーされたYS−11量産116号機。全日空で運航中に500型にコンバートされている。全日空から航空機販売会社へ売却された本機は、90年3月にエアーニッポンへリースされ、3年後に購入に切り替えられている。93年6月にプーケットエアに売却された。

2117

ピードモント航空向けに製造され、96年8月に初飛行し11月にデリバリー、翌年6月に500型にコンバートされた。74年2月にノースカロライナ州ウインストン・セーラム空港で機体の洗浄作業中にKASAIが発生し損傷したが、修復されている。80年8月にペンハースト航空にリース中にオールフレイターにコンバートされた。80年10月にはエアボーン・エクスプレスに売却され、96年12月に用途廃止となり、その後はスペアパーツ用機材となっている。

2118

ピードモント航空に69年12月にデリバリーされ、82年9月にプロバンスタウン・ボストン航空に売却されるまで13年間ピードモントで運航されていたが、本機も他の200型と同様に500型にコンバートされている。85年2月にシモンズ航空へ売却され2年間運航されていたが、アリゾナ州ツーソン空港でストアされている。その後、エア・アルバに88年8月に売却され、92年7月に航空機登録が抹消され現在同社がストアしている。

2119

写真の機体はYS−11量産119号機として製造され69年8月に初飛行したピードモント航空向けYS−11。本機は70年7月にワシントン州ナショナル空港に着陸した際にギアを破損したが、修復され定期便に戻っている。その後500型にコンバートされている。プロバンスタウン・ボストン航空が82年6月に購入・登録している。86年2月にはコンチネンタル・エクスプレスでも一時運航されていた。93年に登録抹消となっている。

2120

69年8月に初飛行し、12月にピードモント航空にデリバリーされ、70年8月には500型にコンバートされている。また、ペンハースト航空がリースで運航中の79年8月にオールフレイターにコンバートされている。79年11月にエアボーン・エクスプレスに売却されたが、再登録されたのは80年7月であった。89年3月には社名をABXエアと変えて運航されていたが、97年5月に登録が抹消されている。

2121

三菱重工小牧工場でピードモント航空向けとして製造され、69年9月に初飛行し三井物産を経て12月にデリバリーされた。82年6月にプロバンスタウン・ボストン航空に売却されるまでの13年間同社で運航されていたが、200型から500型へコンバートされている。コンバート後の85年にシモンズ航空へ売却され同社でアメリカン・イーグルカラーが施された。一時期アリゾナ州ツーソンで保管されていた。89年7月にリトラル航空に売却されたが、91年にリース会社に売却され、92年に航空機登録が抹消された。

2122

69年9月に初飛行し、ピードモント航空に70年1月にデリバリーされたYS−11量産122号機。本機もピードモント航空にデリバリーされた他のYS−11と同様に、当初は200型で製造後にデリバリーされているが、いずれも途中で500型にコンバートされている。また、ピードモント航空で運航中にカナダのノースカナダ・エアに4ヶ月間リースされている。リースバックされた後の83年6月にプロバンスタウン・ボストン航空に売却、同社で約9年間運航されていたが、航空機販売会社へ売却されている。

2123

69年9月に初飛行し、翌月に海上自衛隊にデリバリーされ、下総教育航空群第205飛行隊に配備され、P−2JやP−3Cの対潜哨戒の要員教育に運用されている。

2124

製造番号2124と同様に69年9月に初飛行した、航空自衛隊向けYS−11。空自のみのモデルとなった400型。本機はフレイターとして各基地間の物資輸送用機材として航空自衛隊第403飛行隊に69年10月にデリバリーされ、約8年間運用されていたが77年3月に航法訓練用にコンバートされ、形式がそれまでのC型からナビゲーション・トレーナーを示すNT型に変更されている。航空自衛隊美保基地の第403飛行隊に配備・運用されている。

2125

このYS−11量産125号機は、69年9月に初飛行し、航空自衛隊第403飛行隊にデリバリーされ、空自の各基地への物資輸送に運用されていた。C−130Hの導入により91年4月に厚木基地で電子情報収集機にコンバート。91年5月に航空自衛隊総隊司令部飛行隊電子飛行測定隊に移管されている。この時に形式がC型からEL型に変更された。99年にエンジンの換装及び電子装備などのアップグレードを行ったEB型にコンバートされ、総隊司令部飛行隊電子飛行測定隊に移管され運用されている。

2126

ピードモント航空向けとして製造されたYS−11量産126号機。本機は70年2月に三井物産を経てピードモント航空にデリバリーされ82年6月まで運航されていたが、500型にコンバートされた後にプロバウンスタウン・ボストン航空に売却され、85年2月に写真のシモンズ航空が本機を購入し運航している。アリゾナ州ツーソンで一時保管されていたが、89年8月にリトラル航空に売却され92年2月に航空機としての登録が抹消された。

2127

全日空が69年11月に新規登録を行ったYS−11。90年2月にリース会社に売却されるまでの21ねんかん、日本の空で活躍した。77年9月に大島空港でオーバーランを起こし、約3ヶ月を要して機体の修復を完了した。本機は、90年2月にリース会社に売却されると同時にエアーニッポンにリースされた。その後は96年8月に航空機登録を抹消され、伊丹空港で解体されている。

2128

69年11月にJQ2128のテストレジを付け初飛行した。オーストラル航空向けとして製造されたが、同航空がキャンセルしたため形式を314に変更し、エア・アフリカに70年12月にリースされ、約2年後にリースから購入へ切り替えられている。また、79年3月までエア・アフリカからエア・アイボリーがリースで運航され、全日空が本機を購入し600型にコンバートした後、エアーニッポンにリース運航している。91年11月からアボイティズ・エアで運航されていたが、98年11月に航空機登録を抹消され、現在はマニラ国際空港でストアされている。

2129

三菱重工小牧工場でロールアウトした時は無塗装でハンガーアウトしたYS−11量産129号機。ガボン共和国の政府専用機として製造され71年3月にデリバリーされ、79年12月まで運用されている。ちなみに現在の同国の政府専用機はDC−8−73F(CF)、ファルコン900、ガルフストリームを使用している。ピラミッド航空が購入し、84年6月まで運航した後、プロバンスタウン・ボストン航空に売却しているが、売却前にオールフレイターに改造されている。本機は93年に航空の用に適さないとして登録を抹消されている。

2130

中華航空向けとして製造され、70年1月に同社にデリバリーされ台湾国内で運航された。80年3月に全日空に売却され、伊丹空港に到着した。日本到着後は、全日空及びエアーニッポンで運航されていたが、83年12月にミッドパシフィック航空に売却されている。本機はすぐにリースに出され、日本を出発する際はリース先のトランス・セントラル航空のカラーリングでデリバリーされている。その後、ミッドパシフィック航空にリースバックされ、フォートワース航空のカラーリングでホノルルで運航されていたが、92年7月にホノルルで登録抹消、スクラップとなっている。

2131

69年12月にJA8760の登録番号を付け初飛行を行った全日空向けのYS−11。83年3月まで全日空で運航していたが、ミッドパシフィック航空が購入、83年5月にトランス・セントラル航空のカラーリングでフェリーされている。シモンズ航空が84年7月から運航していたが、一時期アリゾナ州ツーソンでストアされていた本機をエア・アルバが88年7月に購入し運航した。93年8月に登録抹消されアルバで保管されている

2132

海上自衛隊下総基地に70年8月にデリバリーされ、下総教育航空群第205飛教育航空隊に配備され、P−3Cの乗員訓されている練に使用。

2133

70年1月に初飛行し、2月にカスタマーの全日空にデリバリーされ、99年にエアーニッポンに売却されるまで全日空及びエアーニッポン(リース運航)で日本全国を飛び回り活躍していた。本機は03年9月に航空機販売会社に売却され、プーケットエアにリースされている。このため日本の航空機登録は抹消されている。なお、本機も他の200型と同様に500型にコンバートされている。

2134

70年1月初飛行、71年8月に登録抹消された日本国内航空の「ばんだい」。日本航空機製造からデリバリーされた時は、日本国内航空のカラーリングが施されていたが、抹消される3ヶ月前に同社と東亜航空が合併したため、社名を東亜国内航空(元:日本エアシステム、現:日本航空)に変えて運航していたが、71年7月に北海道函館空港北方の横津岳で墜落事故を起こした。

2135

70年3月に東亜航空にデリバリーされたYS−11量産135号機は、テスト飛行時にテストレジであるJQ2135をツケフライトが行われていた。東亜航空時代の本機にはニックネームは付いていなかったが、日本国内航空との合併後に「えらぶ」のニックネームが与えられている。88年7月に日本エアシステム(現:日本航空)から日本エアコミューターにリースされ運航された。この機体も500型にコンバートされている。

2136

ギリシャのオリンピック航空向けとして製造され70年3月に初飛行、3月にデリバリーされ80年10月まで同航空で運航されていたが、民間登録が抹消されギリシャ空軍に移管された。空軍では人員及び物資輸送などに運用されていたが、航空の用途に適さないとされ廃止されている。

2137

この機体も製造番号2136と同様にギリシャのオリンピック航空に70年3月にデリバリーされ、84年1月まで同社で運航されギリシャ空軍に移管、第2の人生を送っていたが、航空の用途に適さないとされ廃止されている。

2138

JA8769の登録番号を与えられ70年10月に初飛行、11月に全日空にデリバリーされ、エアーニッポンにリースされ91年8月まで日本国内路線で活躍していた。全日空時代に500型にコンバートされた。日本国内での運用を97年4月に終えた本機は、フィリピンのアボイティス航空に売却され伊丹からフェリーされている。フィリピン到着と同時にアジアン・スピリットにリースされている。同社で運航中にビラック空港でオーバーラン事故を起こしたが、修復された後に定期便に戻され運航されている。

2139

貨客混載型として製造され70年3月にテストレジのJQ2139を付けて初飛行。大韓航空へデリバリーされる71年4月までの約1年間、日本航空機製造で各種のテストが実施された。77年11月にフィリピン航空に売却されるまで韓国国内及び近距離国際線で運航されていた。フィリピン航空で運航後の84年に、ミッドパシフィック航空に売却されたが、YS−11では珍しく台北で整備された後にフェリーされている。ホノルルでオールフレイターにコンバートされ運航されていたが、89年3月にルイジアナ州ラファイエットパデュー・ユニバーシティ空港で墜落事故を起こし登録を抹消されている。

2140

トランス・ガボン航空向けに製造され70年6月に初飛行したYS−11量産140号機は、同航空がキャンセルしたため、日本航空機製造がエンジン性能を向上したDART542−10Kに換装した600型にコンバートし、写真のS.G.Aが72年から運航していた。一時期スイスのバーゼル空港でストアされていたが、78年にTRAMCOが本機を購入し、ザイールのキンシャサ空港へフェリーされ運航された。92年12月に登録抹消となっている。

2141

70年4月に初飛行し6月から東亜航空でリース運航していたが、10月に購入に切り替えられている。東亜国内航空時代の71年5月に「やしま」のニックネームが付けられた。東亜国内航空の時に500型にコンバートされている。92年5月に登録抹消となり、6月にフェリーされた。アメリカ国内でストアされていたが、93年7月にエア・カリビアンに売却・運航されている。

2142

日本航空機製造が70年7月に新規登録したYS−11量産142号機。本機は登録後東亜航空でリース運航された。日本国内航空との合併後に「とくのしま」のニックネームが与えられた。東亜国内航空時代に200型から500型にコンバートされている。再び社名が変更された時に機体からニックネームが消されている。その後、日本エアコミューターで運航された。

2143

ギリシャのオリンピック航空が70年5月に受領し、81年11月までの約11年間運航したが、その後ギリシャ空軍に移管され運用された。なお、オリンピック航空が登録を抹消したのは84年1月であった。その後本機は航空の用途をなさないとされ廃止されている。

2144

70年4月に三菱重工小牧工場で完成したYS−11量産144号機も143号機と同様にギリシャのオリンピック航空へデリバリーされ、登録が抹消されるまで他のYS−11と同じ運命を辿った。

2145

YS−11量産144号機が初飛行した翌5月に初飛行した量産145号機。本機は初飛行したその翌月にオリンピック航空にデリバリーされている。約10年間オリンピック航空で運航された後に登録抹消となり、ギリシャ空軍第356飛行隊にデリバリーされ、物資輸送などに運用された後に、航空機の用途をなさないとされ廃止されている。

2146

全日空が発注し、70年10月にデリバリーされ88年1月までの約18年間日本の空で活躍していたが、エアーニッポンに売却され同社の路線で03年9月まで運航された。同年航空機登録を抹消したうえで航空機販売会社に売却され、プーケットエアにリースされ運航されている。本機も全日空時代に500型にコンバートされている。

2147

東亜航空向けとして製造されたYS−11量産147号機だが、同社がこの機体をキャンセルしたため、しばらくの間三菱重工小牧工場にホワイトテイルでストアされていた。71年2月にボーラック・インドネシア航空にデリバリーされ運航されていたが、78年1月に東亜国内航空(元:日本エアシステム、現:日本航空)が本機を購入し「りくちゅう」のニックネームで運航した。94年10月に日本エアコミューターにリースさた。

2148


海上自衛隊下総航空基地の教育航空集団隷下の下総教育航空群第205教育航空隊に配備・運用されている。本機は、海上自衛隊が対潜哨戒機に乗務する要員の機上作業訓練用に購入したもの。70年7月に初飛行した後に同航空隊に71年4月にデリバリーされているが、初飛行からデリバリーまでの間に後方支援装置等の訓練用機材の搭載及び機体の改修作業が行われた。

2149

日本国内航空が70年9月に受領し、「あきよし」のニックネームが与えられ、90年7月に日本エアコミューターにリースされるまでの20年間日本エアシステム(現:日本航空)の路線で運航されていた。その後日本エアコミューターで離島路線などに就航した。

2150

三菱重工小牧工場で完成し70年8月に初飛行、9月に航空自衛隊第402飛行隊にデリバリーされ、空自の各基地に物資輸送等、約19年間運用された。89年に貨物輸送だったのが人員輸送用に改修され、第403飛行隊で運用されている。キャビンの改修作業が行われた際にそれまでの型式C型から人員輸送機を表すP型に変更されている。

2151

YS−11唯一のフレイターとして開発された400型だが、同型機を運航しているのは航空自衛隊だけで、写真のYS−11量産151号機も空自が受領後、約19年間基地間の物資輸送に運用された。89年に人員輸送用にキャビンを改修し運用されていたが、96年に厚木基地でエンジンの換装やELINT用電子機器の搭載などが行われ、電子情報収集機にコンバートされている。91年5月に航空自衛隊総隊司令部飛行隊電子飛行測定隊に移管されている。このコンバートで、型式がC型からEB型に変更されている。

2152

日本国内航空に70年12月にデリバリーされ「たいせつ」のニックネームで運航されていたが、71年5月に東亜航空と合併、ニックネームはそのままで運航された。93年7月に日本エアコミューターにリースされ、同社で運航された。日本エアシステム(現:日本航空)で運航中に500型にコンバートされている。

2153

オリンピック航空向けとして製造されたYS−11量産153号機。本機は71年2月初飛行、同年3月デリバリーされ、80年11月に航空機登録を抹消されるまでの約19年間、ギリシャ国内外で運航されていた。登録抹消後はギリシャ空軍に移管され数年間運用されていたが、航空機の用途をなさないとされ廃止されている。

2154

この機体を発注したのが航空会社ではなく、航空機販売会社が購入し全日空がリースしていたため、同航空に70年12月に直接デリバリーされている。運航開始から9年後にリースから購入に切り替えられた。この期間中に500型にコンバートされた。83年12月にミッドパシフィック航空が購入し、伊丹空港からトランス・コンチネンタル航空カラーでフェリーされている。アメリカ国内で運航中の86年6月にオールフレイターにコンバートされた。87年1月にインディアナ州レミントン空港でトレーニングフライト中のトラブルから緊急着陸している。87年9月に登録抹消となり、ウイチタのミッドコンチネント空港で廃棄となっている。

2155

71年3月に初飛行し、オリンピック航空にデリバリーされギリシャ国内外で運航していたが、72年10月にオリンピック航空のホームベースであるアテネ国際空港に着陸進入中に海に墜落する事故を起こしている。なお、デリバリー前に日本航空機製造により500型にコンバートされている。

2156

オリンピック航空が発注し、71年4月に初飛行しデリバリーされ同航空で運航されていたが、76年11月にギリシャのサバントポロス山に墜落する事故を起こし、航空機登録を抹消されている。この機体もデリバリー前に500型にコンバートされている。

2157

ロールアウト時はジュラルミンの地のままでハンガーから出て、JA8766の文字以外何も表記がないままに、初飛行を行ったYS−11量産157号機で、この機体を発注していたのは日本国内航空だが初飛行をした71年5月に同社は東亜航空と合併したため、デリバリー時にも無塗装のまま東亜国内航空(元:日本エアシステム、現:日本航空)に引き渡されている。その後東亜国内航空のカラーリングが施されると同時に「しれとこ」のニックネームが与えられている。86年3月に500型にコンバートされ、日本エアコミューターで運航していたが、02年11月に羽田空港から三沢空港までの最終フライトを実施。三沢到着後に航空機登録が抹消されると同時に、青森県立三沢航空科学館に寄贈展示されている。

2158

71年1月に初飛行し、航空機販売会社を経て全日空にリースされ約4年間運航された。75年6月にりーすばっくされ、南西航空(現:日本トランスオーシャン航空)へ売却され「ひるぎ」のニックネームが与えられた。那覇を中心に八重山諸島などの沖縄の各島間に就航していた。97年7月に航空機登録が抹消されたが、それまでに500型にコンバートされている。抹消後、航空機販売会社を経てアジアン・スピリットにリースされ現在も運航されている。

2159

航空自衛隊入間基地の飛行点検隊にデリバリーされたYS−11量産159号機。本機は71年1月に初飛行し、同年2月に航空自衛隊にデリバリーされている。この航空機は自衛隊の各基地に設置されている航法援助施設の点検を行うもので、本機は最初からFC型機として製造されている。

2160

71年5月に初飛行し、航空自衛隊第402飛行隊にデリバリーされ82年9月までの約11年間、人員及び物資輸送の任務に従事していたが、同機の電子情報収集型へのコンバートが決まり、改造後に航空自衛隊各務原基地の航空実験団へ移管された。約1年間の運用試験等が実施されている。試験終了後に、総隊司令部飛行隊電子飛行測定隊に如何、約14年間EL型として運用されていたが、電子機器をアップデートしエンジンを換装したEB型へコンバートするために厚木航空基地へフェリーされ、改修作業が実施された。97年3月に入間基地へフェリーバックされ、現在に至る。

2161

航空自衛隊向けYS−11量産161号機として製造され、71年6月に初飛行し同年7月に航空自衛隊第401飛行隊にデリバリーされ、各基地間の人員及び物資輸送に運用されていたが、79年2月に用途変更となり、ECM用機材として機体全体のコンバート作業が行われた。改修作業終了後の79年2月に総隊司令部飛行隊電子戦支援隊に移管されている。00年に再び同機のアップグレード作業が行われ、エンジンの換装などが行われEA型として部隊に戻り運用されている。

2162

この機体も航空自衛隊にデリバリー当初は、量産161号機と同様に第401飛行隊で人員及び物資輸送などに従事していたが、76年3月にECM用機材へのコンバートが行われ、E型となり電子戦支援隊で運用された。91年9月にEA型へのコンバート作業が厚木基地で実施され、一時期飛行開発実験団で運用された後に総隊司令部飛行隊電子戦支援隊に戻り任務に従事している。

2163

東亜航空に71年3月にデリバリーされ運航していたが、2ヶ月後に日本国内航空と合併し、本機には「せとうち」のニックネームが与えられ、日本エアコミューターにリースされる88年6月まで日本国内に就航していた。日本エアシステム(現:日本航空)で運航中に500型にコンバートされている。04年4月に航空機の用途をなさないとされ航空機登録を抹消している。

2164

日本航空機製造により、JA8780の機番で71年9月に航空機の新規登録が行われると同時に全日空にリースされ運航していたが、エア・ニューギニアへのサブリースが決まり、後部胴体にエア・ニューギニアの文字が書き込まれ74年11月から運航された。全日空へリースバックされたこの機体は、78年3月まで使用されていたが、リース元の日本航空機製造に戻されている。機の機体は、海上保安庁への売却kが決まり、三菱重工小牧工場で機体内外の改修作業が施され、79年3月にデリバリーされている。受領後に「しゅれい」のニックネームが与えられ、海上保安庁那覇航空基地に配備、任務についている。

2165

沖縄の翼として各島間に就航している南西航空(現:日本トランスオーシャン航空)で71年7月にデリバリーされてから97年10月までの26年間にわたり活躍していた本機は、98年1月にエア・カリビアンに売却された。イギリスのサウセンドに向け01年5月にフェリーされ同地に到着したが、01年12月にサウセンドで火災事故を起こしている。

2166

71年9月に日本航空機製造により初飛行を行い、71年10月には東亜国内航空により新規登録が行われている。本機には「くにさき」のニックネームが与えられ、東亜国内航空で運航中に500型にコンバートされている。88年11月に日本エアコミューターへリースされ運航された。

2167

全日空向けとして製造されたYS−11量産167号機。本機は、72年2月からリースで運航されていたが、78年8月にリース期間が終了したため、日本航空機製造にリースバックされている。リースバックされた本機は、海上保安庁への売却が決まり名古屋で機体内外の改修作業が行われ、79年2月にデリバリーされている。気合い譲歩案長では「おじろ」のニックネームが与えられ、現在海上保安庁千歳航空基地で任務に就いている。

2168

72年12月に南西航空(現:日本トランスオーシャン航空)によりJA8787の機番で新規登録が行われ、沖縄の空で活躍していたが96年10月に航空機登録が抹消されている。抹消後ボンバルディアが購入したが、すぐにアジアン・スピリットにリースされ登録抹消となる97年まで運航されていた。現在はマニラ国際空港でストアされている。

2169

トランス・ガゴン向けに製造されていたが、同社がキャンセルしたためにデリバリー先がガボン空軍に変更され、73年2月にデリバリーされた。約7年間ガボン空軍で運用されていたが、80年にリーブアリューシャン航空が同機を購入、デリバリー前にエンジンを換装し600型に型式を変更している。82年にキング・サーモン空港でエンジンが爆発炎上したが、修復し定期便に就航している。アラスカ地域への物資輸送強化のためオールフレイターにコンバートされた。95年2月に登録抹消となると同時に、エア・カリビアンに売却されている。

2170

ペリタ・エアサービスのカラーリングが施され、71年12月に初飛行したYS−11量産170号機。本機は、初飛行前の同年10月に小牧基地で行われた第3回国際航空宇宙ショーに地上展示されている。72年3月にペリタ・エアサービスにデリバリーされ運航されていたが、東亜国内航空(元:日本エアシステム、現:日本航空)が購入し「れぶん」のニックネームで90年2月まで運航していた。東亜国内航空当時に600型にコンバートされている。96年にエア・フィリピンが同機を購入運航している。

2171

ペリタ・エアサービス向けとして製造され、72年6月に初飛行し72年7月にデリバリーされ東亜国内航空が本機を購入するまでの約6年間インドネシアで運航されていた。日本に戻ってきた本機には「たねがしま」のニックネームが与えられ90年4月まで日本国内で運航されていたが、96年にエア・フィリピンが購入し運航中である。この機体はエア・フィリピンが購入する前にオールフレイターコンバートされている。

2172

JA8786の登録番号が日本航空機製造により付けられ、72年8月に初飛行したYS−11量産172号機。72年10月にリーブアリューシャン航空にデリバリーされ、アラスカで約2年間運航されていたが、74年11月にアンカレッジ空港のハンガー内で火災事故を起こし焼失している。

2173

72年12月に初飛行し73年1月にリーブアリューシャン航空にデリバリーされ、同年4月に航空機登録が行われている。同航空でオールフレイターにコンバートされ、その後本機はリース会社に売却されている。

2174

海上自衛隊向けとして製造されたYS−11量産174号機。本機は人員、貨物輸送機として製造され、海上自衛隊第205航空隊にデリバリーされたが、現在は厚木航空基地の第61航空隊に移管され、日本各地に在る海上自衛隊航空基地間の人員及び物資輸送に従事している。

2175

海上保安庁向けとして製造され、71年11月に新規登録されると同時に海上保安庁にデリバリーされ「ブルーイレブン」のニックネームが与えられた。海上保安庁羽田航空基地に配備され日夜海難事故等が起きないように警備救難任務に就いているが、後継機としてガルフストリームの導入に伴い、YS−11の退役が開始されるようである。ただしB200Tの耐用年数の関係から、当分の間YS−11は運用されるようである。

2176

73年2月に初飛行し、同年3月東亜国内航空にデリバリーされ「おが」のニックネームが与えられ日本国内で運航されていたYS−11量産176号機。本機は、東亜国内航空時代に500型にコンバートされている。88年11月に日本エアコミューターにリースされ鹿児島を中心に運航されている。

2177

73年2月から全日空が日本航空機製造からリース運航し、78年5月にリースバックするまで日本国内を飛び回っていた。日本航空機製造に戻った本機は、海上保安庁向けの改修作業が名古屋の三菱重工で行われ、78年12月に海上保安庁にデリバリーされている。その後本機には「しゅれい」のニックネームが与えられ、海上保安庁那覇航空基地に配備され任務に従事している。

2178

73年3月に初飛行し、日本航空機製造により新規登録が行われ、73年3月に全日空にリース運航されていたが、76年7月に東亜国内航空にサブリースされ「とかち」のニックネームで運航されていた。78年4月にリースバックされ79年9月にリース会社に売却されると同時に東亜国内航空に再リースされている。このときに500型にコンバートされ、この後リース会社を転々としていたが、93年7月にエア・カリビアンに売却されている。

2179

フィリピン航空局向けとして製造されたYS−11量産179号機。本機は最初からエンジン出力がアップされた500型として製造され72年10月に初飛行し11月にデリバリーされている。この機体は、フィリピン国内でフライト・チェッカーとして運航されていたが、74年3月に写真の登録番号(PI−67)からRP−77に変更されると同時に所属も航空局から政府(フィリピン空軍)にj変更され、当時の大統領夫人であるイメルダ婦人も搭乗する要人輸送機に改造されている。改造作業は日本の全日空整備で約2ヶ月かけて行われた。なおこの機体はフィリピン・ビルモア空軍基地に展示されている。

2180


73年3月に初飛行し、同年12月に海上自衛隊下総教育航空群第205教育航空隊にデリバリーされ、海上自衛隊の対潜哨戒機に搭乗する機上作業員の基礎訓練用んじ運用されている。その後本機はオールフレイター型にコンバートされている。

2181

この機体も海上自衛隊向けに製造され、海上自衛隊下総教育航空群第205教育航空隊に74年2月に配備されている。初飛行からデリバリーまで約9ヶ月ほどかかっているが、これはP−3Cなどに搭載されている対潜機器と同じものを搭載したり機体の改造作業などが行われたためである。この機体もオールフレイターにコンバートされている。

2182

YS−11の最終号機となったYS−11量産182号機は海上自衛隊にデリバリーされている。本機は73年4月に初飛行、同年5月に海上自衛隊航空集団隷下の厚木航空基地所属第61航空隊にデリバリーされ、日本各地に点在する海上自衛隊航空基地間の人員及び物資輸送などに運用されているが、近年オールフレイターにコンバートされた。

YS-11全機情報2 (#2092〜#2182)